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テルミンプレーヤー井伊英理
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who's 井伊直政



井伊直政(いいなおまさ 1561年~1602年)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。上野国高崎藩主。のちに近江国彦根藩の初代藩主。徳川家康の家臣。徳川四天王のひとりであり、信長によって滅ぼされ主君を失った武田軍を受け継いだ。

上洛を目指す武田信玄の晩年における目標は織田家の撃破であった。尾張・三河を目指す信玄は天正2年(1572)「三方ヶ原の戦い」(現在の浜松市付近)で家康軍を撃退する。家康は武田軍の追撃を振り切り九死に一生を得る。勢いに乗る武田軍であったが三河地方に侵攻する途中、発病のために上洛は中止される。翌年甲斐国へ帰還中に信玄は病死した。

直政は、家康に見出され家臣となり、信玄没後も家督を継いだ武田勝頼との「長篠の戦い」(1575)、一旦武田氏の手中に落ちた城を取り戻す「高天神城攻略」といった戦いで数々の戦功を立てて勇猛を鳴らし、22歳にして旗本先手役に任ぜられる。「天目山の戦い」(1582)にて織田信長により武田氏が滅亡、同年の「本能寺の変」の混乱を経て、甲斐国は家康によって平定される。その折に武田家の旧臣達が直政の元に配属される事となる。武田の赤備えを支えた山県隊の旧臣達も直政に付けられ、これにあやかって直政も自分の部隊を赤備えとして編成している。井伊の赤備えは対秀吉の「小牧・長久手の戦い」(1584)で先鋒を務めて奮戦し、井伊の赤鬼と呼ばれ恐れられた。以後幕末に至るまで井伊家の軍装は赤備えをもって基本とされた。

慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では家康本軍に随行。山内一豊をはじめ諸大名を東軍につける工作を行い、また本戦においても家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐して西軍に一番槍を付ける戦功を立てる。関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めにも奔走し、自らは石田三成の旧領近江佐和山18万石(滋賀県彦根市)を与えられた。慶長7年(1602)2月1日に、おそらくは過労と島津義弘軍の追撃において受けた鉄砲傷の破傷風が元で死去した。

徳川四天王(とくがわしてんのう)とは、徳川家康の側近に仕えて江戸幕府の創業に功績を立てた4人の武将(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)を顕彰して呼んだものである。仏教の四天王に準えている。類似の概念として更に12人を加えた徳川十六神将がある。

※ 本多忠勝・榊原康政・井伊直政3人は1590年の徳川の関東移封から1600年の関ヶ原の戦いまでの時代に、徳川の家政と関が原の戦いに関わる大名工作・戦後処理に中心となって活躍して幕府の基礎固めに功績があり、特に彼らを指して徳川三傑と呼ぶ場合がある。


写真は「NHK大河ドラマ 功名が辻」より篠井英介


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